昭和47年03月28日 朝の御理解



 御理解 第17節
 「神の綱が切れたというが、神は切らぬ。氏子から切るな。」

 大変難しい、実にデリケートな神様と人間氏子の関係というのが教えられておると思うですね。天地の親神様、そして私ども人間氏子、そういう関係が切れるとか無くなると言う事は有り得ません。親神様を親神様と思うていないくても、やはり親子の関係は関係であります。係わり合いというのは切れません。けれどもここでは、おかげが受けられないと言う事、受けられるおかげも受けられないと、そういう時に「神の仏も無いものか」とか「神の綱が切れた」とか言った様な意味のことを申します。
 どの様な時に、これは信心を頂いておると、ただ金光様の御信心を頂いておるというとか、金光様の信心をやめたとか、そう言う様な事ではない。金光様の信心はいくら受けておっても、やはり神の綱を切っておるような場合がある。そこに私はデリケートと言う事を、今日は言っております。金光様の信心をして、朝晩例えば拝んでおると言う事、それでも神の綱をはずしておるというか,切っておるような。
 「神からは切らぬ。氏子から切るな」とこう仰られる。と言う事は氏子の信、いわゆる絶対信「氏子から切るな。」と仰せられる親神様の働きというか、お力というかそれを絶対信じるという。これが神の綱をとの繋がり。その繋がりがそこからおかげの交流と言う事になるのである。ですからその信が薄い、絶対信と言う様な、それを信じる力が薄くなるところから神の綱は切れようとする。
 その辺のところが、実にデリケートですよね。今日私御神前で頂いたのは人力車、昔は人力車というのがありましたよね、人を乗せる。人力車に一杯の人を乗せるのじゃなくて、一杯の品物を載せて、こう、引っぱって行くところを頂いたね。信の世界というのは、信心の世界というのは、私は、信の世界に住むことだと。信ずる世界に住むことなんだと。神様を。そこから神力無限。限りの無いおかげと限りの無いお働きを、身に心に感ずることが出来る程しのおかげが受けられるのであるね。
神を信じる。信心とはそういう神様を信じきっての生活。いわゆるそれを絶対信という。信心をさせて頂いておるけれども、人力に縋っておる。いわゆる人力に縋っておるね。人間の力というものにはもう限りが有る。限りの有るものに縋る。自分の力を過信する。自分の力を、に頼る。神様のお働きにまかせる。これはこの辺のところは大変難しゅうなるんですけれどね。
 神様の働きにゆだねまかせると言う事は、ただもう一切合切を神様まかせで、人間はじっーとしとって、腕をこまねいていて良いというのではないのですよね。人力の限りを尽くして神命を待つと言う様な事でもないのです。この辺のところ、なかなか難しいですね。昨夜の御理解の中に、エーッと「冷ややかな性質の人は、やはり冷ややかな境遇をこしらえてそこに生き、そこに死んでいく」という。冷ややかな性質の人は、やはり冷ややかな境遇をこしらえる。
 いわゆる冷たい人、冷たい人は冷たい境遇を自分でこしらえる。そしてそこに生きて、そしてそこに死んでいく。だから温かい人はと言う事にもなる訳です。温かい人は温かい雰囲気を、温かい境遇を、自分の周囲に作っていくことになるのです。神様は一様におかげを下さってあってもね。冷たい世界に住む人、温かい世界に住む人、それも心次第なのである。そこに生きてそこに死んでいく。だから温かいおかげを頂きたいと思うなら、先ず私が温かくならなければならない。
 それにやはり冷たい、マア言うなら冷淡な心がそのままであって、「どうぞ温かいおかげを下さい。」と言うても、もうそこには温かい神の綱というものは切れておるのも当然であるね。実にデリケートでしょうが。御理解16節ですよ、その前のところに「無常の風が時を嫌うぞ」と仰る。金光大神の道は。普通では「無常の風は時を嫌わん」と言う。言うが、金光大神の道は「無常の風が時を嫌うぞ」と仰る。言うならば、「助からん者でも助かるぞ」と言うね。
 これは私はね、絶対信から生まれて来るものだと思うのですね。神様を信じるね。だから、神様を信じておると言い、また信じておると思い、神様のおかげを頂かなければ立ち行かんことも分っておる。分っておるけれどもです、そういう時に人力に縋ろうとする。人間の働きに縋ろうとする。そういう時に神の綱が切れる。だから、神の綱が切れるということは信心をやめると言った様な事ではないのですよね。
 信心をしておってもそうなる。自分の心の動きというものいかんによって、神の綱が、いよいよ絶対の強さをもって、私どもと神様の繋がりを保つ事が出来ると思うと、私どもが不安になる。心配になる。それが人力に縋ることになるね。そこから絶対信というものが薄くなってくる。そしてそういう時に人事の限りを尽くすと言う事の様に、それを思うておる。人事の限りを尽くして、おかげの方は反対の方になっていく。
 こんな馬鹿らしい話は無いですけれども、その辺が信心のいわゆるデリケートなところなのですね。「無常の風が時を嫌う」という程しのおかげを頂くと言う事は、そんな人力というような心の起こらない、言うならどう言う事でしょうか。神にお縋りをしておることであるからね。言うならば、どん腹を据えると言うか、度胸を据えて神様一心に縋っていくというような生き方からしか「無常の風が時を嫌うぞ」と、無常の風に時を嫌わして下さる程しのおかげにはなって来ない。
 そういうおかげが誰の上にでも頂けることになっておるのが信心。それを自分の信、不信でね。信の度合い、程度でおかげが変ってくるね。これはもう、本当に限りがないことですね。いかに例えば、なら私なら私が偉そうに言っておってもね。実際の問題に直面した時にです、その本当に、その絶対信というものをで、それを受けていけるかというと、やはり、心に迷いが生じたり、心が動じてくるね。
 そこにまあ修業があるわけであり、または、そこにどん腹を据える、いわゆる度胸を据えてね、いうなら「ままよ」という心にならせて頂いてお縋りをすると言う事になる。そういう信心体験がです、「ままよ」という心でお縋りをするような生き方。そういう時に「ままよ」という心を出せずに人力に縋る。そこにはもう神の綱が言わば切れたも同様の働きしか起こらないね。
無常の風に時を嫌わす程のおかげを与えて頂くためにはね。いうなれば「ままよ」という心ね。物に縋るとか、神に頼るとか、人に縋るといったような人力に縋るというのではなくて、もういよいよ神様一途にお縋りをする。それでもやはり不安である。動じないことはない。けれども、そこに度胸が必要になってくる。それを例えば教祖は「ままよ」という心に、ま「どうにでもなれ」と言った様な、その投げやりのものではない。もう「右になろうと左になろうと」ね。「もうあなたにお任せいたします。」
 という心なんですね。それを「ままよ」と教祖が仰る「ままよ」という心ね。その先に十二分の徳を受けよと仰るような。神徳というのは結局は神様を信ずる力だとこう思っとるんです。今まで十しか信じられなかったのが、言うなら、十二信じられる様になる訳なんです。だから十二分のおかげ、十二分のおかげというものは、もう死ぬはずが生き返ると言った様なおかげにまでなって来るのである。無常の風がなるほど時を嫌わして下さるのが、金光大神の道だ。天地金乃神様が働いたと言う事になるんです。
 それを十二分に神様の働きを表し得る、得る。まあ、表そうと精進すると言う事がです、神の綱をしっかり握った人の信心姿勢ではなかろうかと、私は思う。ね。いよいよの時には、人、ね。言うなら無限の神力に縋らずそれ以外のものに縋る。人力に縋る。人力というのには限りがある。いよいよの時にこそ、無限の神力に縋らなければならんのに、ね、そういう時に神の綱が切れるのである。だから信心を続けておるという、「金光様、金光様」といつも唱えておるというだけではないのです。
 神の綱を、いよいよ頑丈な繋がりにしていく働きと、私共がいつもそう言う事があることはない。けれどもそういうチャンスにいき当たる。又はそれをおかげなんかが加担すれば恵まれるという。例えば難儀なら難儀と迷わなければおられないような事柄に直面すると、動揺するようなことに直面すると、それはそういう見方もあるけれども、そういう好機会に、好チャンスに一徳を受けるぞと言う様な意気込みというものが、いわゆる「ままよ」という程しの心を出させて頂いて十二分の徳を受けるというか。
 十二分のおかげを頂くというか、それこそ人間の頭では考えられないような働きを、そこに表すことが出来る。天地の親神様の働きの中にはそういう働きがあるんだけれども、私どもがね( ? )には、それが学が身を喰うとも教えておられる。少しばかりの人間が頭で考える。学問をしておるとね、ただ人間が常識的になってしまって、常識的な程度のおかげだけしか頂けないことになってくる。
 金光様のご信心、例えばここのところの「無常の風が時を嫌わす」と、無常の風にでも時を嫌わすという程しのおかげと言う事はね、もう超常識。超がつく程しのおかげなのだから、常識を超えたものね、そこのところを私は、いわゆる「ままよ」というた、言った様な心の状態を頂くことだと思う。なかなか行き届いた考え方をする人がある。それを良い方に使えば良いけれども、それをこと信心の方へ使うと、先から先まで心配をして、神の綱を緩めたり切ったりする様な事にしかならんのです。
 あんまりだから、行き届いた考えとかね、頭が良すぎるとかと言う事が、却ってそういう邪魔になるようなことにもなる。頭が良いのがいけないというのじゃない。だからその頭をですいよいよ、例えばなら学問なら学問をです、いよいよ神様を信じきらせて頂くことに使えば良いけれども、中途半端な学問がかえって神様を信じきらない。言うなら科学万能・医学万能と言う様な事になってきたら、それまでのおかげである。医学も例えば科学も、それを超えたもの。
 そういう私は世界に住むことが真の世界に住むことだと、こう思うね。私共は毎日の生活の中に、本当に神様を疑うわけではなかばってん、信じきらないと、言う様な事があります。お互いの信心がいわゆる半信半疑だと、やはりおかげも半分。疑うてかかれば、もう全部が、神様のその働きすらが、嘘になってしまう。いわゆる、神の綱は完全に切れてしまう。信じてかかれば、もう全部がおかげとね。
 神の綱が切れたと言った様な事を、信心をやめたと言う様な意味の時に使うんですけども、また事実そこんところを教えておられるのだと思いますけれども、(  ? )私どんじゃ(  ? )きらん。と一生懸命、例えば、信心修行もしたりお参りもしたりした人が「ハアー、もう、とてもここの信心は難しか。とても私どんじゃ出来ん。」と言うていうよう具合に、神の綱を放して行く事になる。
 そういう意味でも、ここはそういう大体意味なことだと思います。けれども今日は、信心さして頂いておりましても続けておりましても、やはり神の綱をはずしておるようなことがあり、それ、いわゆる緩めたものにしておる。神の綱を絶対のものとして私どもが頂くためには、やはり信心修行が必要であり、度胸が必要である。信心修行が出来ておる時には、もう、自分でも不思議なくらいにモリモリするような元気な心が湧いて来る。そしてね、「ままよ」という心が湧いて来る。
 「もうどげんなったっちゃ良か。」と言った様なものではなくて、「もう右も左も、あなたに任せる。」という心が生まれて来るね。そういう時に、いよいよ神を信じる力というものが頂けて来る。また、そういう時に、私が申しましたね、「超」がつくようなおかげ。とにかく、夢にも思われないようなね、人間の知恵・力では考えられないような、無常の風に時を嫌わす程しのおかげになって来る。
 そういう例えば、神様の特別なお働きの中に住む事がです、本当は私は信心者の、ま、特権だと思います。信心者でなからなければ、そこそういう世界に住む事は出来ません。だからそういう世界に住めれる、例えば道を作って下さろうと神様がなさっても、そういう時にはその道をとらずに人力の方をとろうとするところに、いつまでたってもね、信心なしよるけれども、半信半疑の信心、神様しか頂けないことになるのです。私共は、本当の神様のそれこそ、情あふれる例えば、世界に住みたいね。
 そのためには、私共がね、情け深いというかね、温かい心にならせて頂くことの精進をしなければならんね。どんなに例えば冷たい性格の人であってもね、信心が燃えて来る。昨日の朝の御理解に「信心論が白熱化して来なければ」と言う。私はそこが西岡さんが当番で上の御祈念の後の教話をしておられましたが、そのことについて話しておられました。白熱、白熱すると言う事は、あの赤い火が真っ白になってしまうんだそうですね。千℃にも二千℃もなってまいりますと、それが白熱化とこういうね。
 どんなに冷たい人でも、消極な(?)人でも信心が白熱化してまいりますとですね、心がたぎるような温かいものが頂けてくるようになる。そこに私はね温かい世界、「本当神様の御守護を受けておる印だ」と感じなければおられないようなおかげが日々感じられる。昨日野口さん、富永先生が事故に遭われましたがね、お母さん一日、二日あちらに行っとられました。行っておってもあきらか(?)でそのう、時の模様を聞かせて頂いてから、昨日、直接ここへ帰ってみえましてからのお届けです。
 「もうどんなに先生考えさせて頂いてもです。本当に神様がこうね、そういう温かいお懐の中で起きておったことだということを感じないわけにはまいりません。」もう相当スピードを出しておった。自動車が水の中にこうやって横たわっておる。それが故障、事故が、起こしておった車やった。それでその、一寸どこか怪我をしておられたそうですから、そこに交渉に一人は行き、一人はその道の真ん中にあるもんですから、懐中電灯でこうやって、あのう、反対側の方はこうやって照らしよったばってん。
 反対の方は誰も照らすものがなかった。それを見る者が、近所の人達が「ハアー、あげなこつするなら、危なか。もうあんげぶつけられたら、どうするじゃろか。」と言う口のうちに、富永先生の自動車がスピードをもって、その自動車にぶつかったわけです。なーんとね、10メートルも自動車が飛んどったげな(笑い)。もうその10メートル飛んだだけならまだいいけどもですね、電気をこうこうしよった人がね。
 ちょうど10メートル先でこうしよった、ホンな足元に落ちてきたそうです。自動車が。ひどいもんですね。もう本当にそれこそ、足元に落ちてきたと言う事です。ですからどうでしょうか。その人の上に落ちとったら、もうそれこそ即死でしょうね。交通違反、例えばそのうですわね。スピードを出して走ると言う事はね。そこはだから私共の、間違いである。間違いの中にあっても、神様がやむにやまれぬ思いで、こうしておられることを感じますね。
その時、お届けがありましたがですね、富永夫妻の信心がそのようにして、そういう時にものを言うわけ。と、いうことになるのじゃないでしょうかね。神様の温かい(?)それにはやはり、温かい心を持っての信心ね。結局信心は合わせ鏡と言われますけれども、こちらの心次第なのですけれども、その心次第の中にです、神様をね、信じ又は神様を頂くとこう言うけれどもですね。
 いよいよ頂けれるチャンスに恵まれておる時にです、私どもが人力の方へ、人力の方へ心が動いてまいりますと、もう人力のそれだけのものおかげが、無限のものに繋がることが出来ないね。そのへんのところの、マアー難しさというか、デリケートなことろをです、私どもは、いろいろな機会に、そこんところをわからして頂いて、いよいよ絶対信の信心、絶対信の日常生活が出来る。
 いわゆる安心の生活が出来るおかげを頂きたいものである。「神の綱が切れたというが、神からは切らぬ。氏子から切るな。」と。私どもが少し疑えば、もう神の綱は、もう少し緩んでくるね。人力の方へつたっていくと、もう神力というものはもうそこで切れ、ある意味では切れておるね。どこまでも、神様一途の信心をいよいよ進めていきたいと思いますね。
  どうぞ。